- 2013年08月03日
大船鉾本装用裾幕について - 2013年07月05日
大船鉾考証 勾欄について - 2012年12月05日
大船鉾考証 作事三者 - 2012年11月27日
大船鉾与力衆 作事三者 - 2012年06月12日
大船鉾考証 御神体人形
大船鉾考証アーカイブ
大船鉾本装用裾幕について
多くの皆様のご支援により、本年も無事唐櫃巡行を貫徹できましたこと、簡単ですがこの場で御礼申し上げます。その巡行の模様など、お伝えしなければならないことが山積みなのですが、来年の鉾本体巡行に向け、各調度品・備品を拵えるべく奔走しております。巡行終えてから今日まででもいくつかの調度品を調進いたしました。詳しくは後日お伝え申し上げます。 さて件の裾幕ですが、大船鉾町では現在これを所有しておりませんため新調の必要があります。そこで今回、京都市立芸大の学生に図案を依頼、複数案戴き大船鉾保存会で選議・選定させていただく形で調進いたします。既に図案発注を終え、去る8月1日、図案十作を保存会に懸案いただきました。この試みは、昨今世上でよく見かけるような、「大人が学生にサービス精神でもって活動・創作の場を与え、話題作りを図る」というような軽いものでは一切ありません。何しろ、今や価値がつかないほどの江戸中後期の見事な幕で鉾の周囲をぐるりと覆うものの一翼を飾る裾幕です。次代の京都芸術壇を担うであろう若者に、早い(若い)段階で、百年・二百年と大切に扱われ、七月の晴れの場で連年本装として掛け、やがて日本の文化財になる鉾の懸装幕を拵えていただく…=本物の創作を!という念のもと依頼させていただきました。幕のテーゼをしっかり踏まえて戴き、哲学ある図案をと頼み込んだその情念が通じたのか、お世辞なく、十作どれも捨てがたいものを提案いただきました。来年のお祭りでは「とても学生が作ったとは思えぬほど地に足のついた、老獪ささえ漂う見事な本装用裾幕」をお見せできますので、皆様におかれましては健康に気をつけながら来年の披露を楽しみにしていただきたく思います。
大船鉾考証 勾欄について
先日は欄縁も完成し、ヨドバシビル文化財展示室のではきりりと引き締まった大船鉾の姿をお見せすることができました。ご覧いただいたでしょうか?お越しいただいた方は欄縁の側面中央に数箇所の切込みが入っているのに気付かれたかと思います。ここに出桁がはめられ、その上に勾欄が組まれるのです。
勾欄は高欄とも書き、建築に取り付けられた欄干のことです。祇園祭では両船鉾と綾傘鉾の台車に存在します。細かいことを言うと橋弁慶山・浄妙山の橋の欄干、八幡山・油天神山・霰天神山・鯉山・の社殿(保昌山の紫宸殿にはないようです)、蟷螂山の御所車にもありますがいずれも山鉾本体に付属するものではありません。本来、建築的にはないほうが不自然なのですが、山鉾の古い形は欄縁部分を覆うように織物を掛けていたので、欄縁ができた後も勾欄を設けなかったのではないでしょうか。また、構造上欄縁よりも床が低く張られていたので必要なかったとも思われます。さらに、囃子方の人数が増え、欄縁に腰掛けて囃子をするようになったのも理由のひとつに挙げられます。綾傘鉾の台車は近年のものなので装飾的につけられたのでしょう。ほかの祭礼の曳山には勾欄があるものが多いですが、祇園祭の影響が大きい大津祭(月宮殿山には設置)、亀岡祭(蛭子山には設置)の曳山・舁山には勾欄を設けていません。伊賀上野天神祭では9基のうち6基が設けており、京都から距離の遠さが偲ばれます。余談ですが、三条の某精肉店のシンボルマークが長刀鉾ですが、勾欄が描かれておりちょっと可笑しいです。
前置きが長くなりましたが、両船鉾の勾欄は装飾的にも目を引くものとなっており、側面の張り出しから艫にかけて設置されています。さらに、艫櫓の上下にも設けられています。複雑な屋根の形もそうですが、これらの華麗な装飾は、船鉾が御座船を模したことから来ると考えられます。鉾柱を櫓に立て、屋根を掛けていった鉾との大きな違いです。
わが国の寺院建築の初期は法隆寺の卍崩しの勾欄など、中国・朝鮮の影響を受けた意匠が用いられましたが、和様が成立すると「擬宝珠勾欄」と「刎勾欄」の二種に大別されるようになります。「擬宝珠勾欄」は角の柱が丸柱で擬宝珠のキャップを嵌めたもの。「刎勾欄」は角で横柱が上に刎ねる形で組み合わされたものです。また、前面を空ける場合に蕨手という曲線で先を納める意匠もあります(名古屋型山車や仏壇など)。角以外は原則共通で、横柱を下から地覆・平桁・架木と呼び、一番上の架木は丸柱が原則です。
張り出し部分は船鉾・大船鉾とも共通で、内側の柱が擬宝珠、外側が刎勾欄となっています。船鉾の艫櫓の勾欄は上層が朱塗りの刎勾欄、下層は黒塗りなのですが柱は角柱となっています。室町時代ころから中国風の意匠が取り入れられるようになりましたが、江戸時代になると自由に意匠が組み合わされます。その一例といえるでしょう。また、船鉾には旗・吹流しを立てる衝立が設けられ、艫櫓の勾欄はその角柱に続いているので意匠を合わせたのかもしれません。大船鉾の艫櫓は衝立もなく、上層擬宝珠勾欄、下層刎勾欄のシンプルなものになる予定です。
面白いのは張り出しと艫櫓の間の勾欄です。船鉾は張り出しと同じ朱塗りの勾欄なのですが、大船鉾のこの部分はいずれの図も板状に描かれています。金箔地に黒塗りの柱型が張り付いているようにも見えますし、彫刻や模様が入っているようにも見えます。今回の復元では素木に柱型の入った板状になる予定ですが、意匠は今後の検討課題です。ひとつの仮説を述べさせていただくならば、この部分は中国風を意識していたのではないでしょうか。町内の先人は、唐様の意匠に「この船は海を渡って帰ってきたものだ」という思いを込めたのかもしれません。
なお、これらの勾欄は、屋形とともに来年の巡行復活を前に素木にてお披露目させていただきます。どうぞお楽しみにお待ちください。また、将来は塗りを施し、金具を打たせていただきます。勾欄は、上記の板状の部分以外はすべて朱塗りの予定です。ご協力と応援をどうぞよろしくお願いいたします。
大船鉾考証 作事三者
皆様お待たせいたしました。今回は与力衆作事三者についてやや詳しくみてゆこうと思います。
①大工方
大工方とは、大船鉾の舞台(ご神体や囃子方がのるところ)と屋根と艫屋形、鉾桟橋の作事を担う技術者集団です。そして作事三者のなかで最も上役になります。これは本来鉾の「衣裳」に値する塗り物や彫刻・彫金類を扱うためです。いわば本来旦那衆自らすべき作事を肩代わりするということです。幕類衣裳や房などは町内旦那衆によって鉾建て最終日に蔵2階から運び出され、旦那衆自ら鉾に据え付けます。これは「町内の大宝中の大宝は自分たち以外に触れさせない」という昔堅気の由縁です。蔵が非公開というのもまた同じ理由です。町内ゆかりであったり、洛中で評判のある絵師に下絵を描かせ、当代の名工に大金をはたいて作らせた彫刻・彫金・塗り物のたぐいも、もちろんこの範疇に入ります。が、大きな鉾の、しかも特殊な揺れ構造をもつ屋根などは到底素人作事では間に合いません。そこで宮大工を中心とした「大工方」集団にこれを依頼するのです。これがため、舞台より下の構造には一切触れません。欄縁のみは旦那衆自らの作事が可能なため、大工方は触りません。このように最も旦那衆に近い作事を請け負う為、吉符入り式や各会合でも上席になります。巡行時、棟梁は鉾の後ろを歩き、鉾本体の「検分」を行います。鉾におかしな歪みがないか、無理な力がかかってないか、脱落部品はないか…。これを後ろから督視します。それがため、車方棟梁に次ぐ「急ブレーキ発動」の権限を持ちます。その他、大工方2~3名が鉾に乗り込みます。これは他の鉾の「屋根方」にあたる役目で、舞台より上の構造物(自分たちのセクションの構造物)に異常なきか、また異常ある場合は応急処置役として活躍します。総勢は8名ほどの集団です。
②手伝い方
手伝い方とは、鉾の基礎構造部分を受け持つ技術者集団です。作事三者のなかで最も重要であり、鉾本体の肝を司ることになります。基礎構造部分とは車軸・石持・基礎櫓部・船体部をさします。細かいことを言いますと、車軸と車輪の間にある「潤滑油(たね油)」も手伝い方の範疇です。毎年鉾建ての全てに渡って仕事があるため、いやおうなく鉾の全てを知ることとなり、旦那衆から最も頼られる存在です。逆にこの部分の作事が歪んでいたりすると、これを基礎にする屋根も艫も車輪も、全て歪みます。町内と綿密な連携をとり部材のねじれや変形、欠損、耐久力、部材新調時期など多岐にわたり相談にのってもらうこととなります。さらに四条町秘伝の「縄がらみ」を永代受け継いでもらうことになります。さらにさらに埒組、提灯建ても請け負い大忙しです。手伝い方棟梁は巡行時、曳き綱の中央やや先あたりを歩き(お供衆の10メートル後ろあたり)、鉾の進行を司ります。(後述※)手伝い方の中から5名が音頭取になります。総勢10名ほどの集団ですので、残る4名は純粋な手伝い方として辻回しや曳き手に加わったりします。現在ヨドバシに展示中の大船鉾は、舞台と車輪と轄(くさび)を除きすべて手伝い方の範囲です。
※:山鉾巡行は神事であります為、神事励行場所がいくつかあります。また巡行列のため前の山鉾にあわせて進行する必要があります。(必ずしもピッタリ付いてゆくのではなく、場合によっては少しあけて止めたりもします)これらの事はすべて町内お供衆鉾進行係の扇によって合図されます。この扇は鉾はおろか「四条町の行列」そのものを采配します。手伝い方棟梁はこの合図をよく見て、「音頭取」(すなわち自分の部下)に合図を送ります。その合図に従った音頭取の「エンヤラヨイ」で鉾は前へ動くのです。ただ辻回しでは、お供衆は全員相引に腰掛けこれを検分しますので、辻に入ってから向きを変えるまで手伝い方棟梁に指揮権を委ねます。
③車方
車方は鉾の車と、進行時の方向調整、辻回しを請け負います。今や舗装されたキレイな道ですが、昔は土を踏み固めた地道でありました為その作事は泥だらけになって大変だったことが伺われます。鉾建て最終日に車輪をはめ、轄をして、曳き初めの方向修正を担います。巡行時はもっぱら方向修正にかかります。鉾前を後ろ向きに指南役が歩き指示を出します。前両輪には「カケヤ」(掛矢:いわゆる大木槌の名称だがこれに見立ててか或いはかつて木槌を代用したか)という車止めを引きずる2名、方向修正のかぶらてこを前輪大外2名、中1名、残りは追い梃子を持って四輪に附きます。それに加え「辻回し」という大きな役目があります。竹or樫枝or柳枝を敷いて鉾をまわすのですが、これも簡単ではありません。まず前の両輪がきっちり竹にのらなければなりません。上手な車方は鉾が遠くにあっても目算で竹を敷き、きっちりのせますが、自信のない車方は鉾を近くまでもってきて車輪の目の前で竹を並べます。また鉾をまわすとき後輪のどちらを軸にしてまわすかによってまわる角度が異なります。このように辻回しの実務を執るのは車方集団ですが、儀礼的進行権は手伝い方頭領にあるため、動かす(まわす)準備ができたら手伝い方棟梁に「出来ました」と通告します。それを聞いた手伝い方棟梁は扇を振り上げ、音頭取の「ヨウイトセ」で鉾がまわります。ただし、あまりに引っ張りすぎて竹から車輪が脱落すると後が大変なため、「もうええ!」という号令は車方棟梁が行います。総勢10名、方向調整を請け負うため「急ブレーキ」の権限を1番に有します。但し、鉾を進め動かす権限を有しませんため、「動いた鉾を必死に方向調整する」というのが本文です。
大船鉾では着々とこれら作事方の組織作りに励んでいます。各方面の暖かなご支援を賜りますよう重ねてお願い申し上げます。
大船鉾与力衆 作事三者
法勝寺九重の塔(81m)、東寺五重の塔(55m)。これに次ぐ高さを誇る祇園祭の鉾を建てたり仕舞ったりするには、それ相応の技術者集団の「作事」を要します。鉾を所有する旦那衆はこの技術者集団を雇い、鉾建て、運行を請け負わせるという伝統が今日まで続いています。これら技術集団はさらに専門ごとに3つに分かれるところから「作事三者」と呼称します。
①大工方
②手伝い方
③車方
以上です。次回より、これら現在の作事方がそれぞれどのような技術をもち、何を請け負って祭礼轍
継に関与するのかをお話できればと思っています。
大船鉾考証 御神体人形
平成23年度の京都府の助成事業による補助金を受け、御神体装束として神功皇后様の狩衣と安曇磯良様の厚板を新調し、本年のお祭りで目出度くご披露させていただくこととなりました。そこで大船鉾の御神体人形について少し考察してみたいと思います。
祗園御霊会細記には「還御の体をうつす、人形各七日船と同じ」とあります。また「増補」によると、「人形 神功皇后 当町人形天明大火に焼失せし也。然共此皇后の御面計(ばかり)は残りしなり。其余は何れも新作也。即京都四条人形師斎藤新十郎作也・・・・」とあり、その後には各御神体の装束についての記述が続いています。つまり大船鉾には前祭の船鉾と同じく「神功皇后様」「安曇磯良様」「住吉明神様」「鹿島明神様」の、四体の御神体が乗っておられました。では、現在残存しているものはどうかと申しますと、神功皇后様の、天明の大火でも焼失を免れた御神面と、御神体人形ならびに装束一式のみとなっています。この御神体人形と装束一式について、禁門の変の被災を免れたものかどうかという点については、比較的新しい年代の製作と思われることや、御神体を鉾本体にお乗せするための装置の痕跡が見当たらないことなど、今後の調査研究の成果を待つとしまして、現存しない他の三体の御神体については、これは近い将来必ず復元新調しなければならないものであります。増補の記述を見ますと「人形 神功皇后・・・面をかけかつら其上に天冠あり・・・」とあります。この面は能面の「小面」でしょうか、あるいはもう少し年齢の高い「曲見」のようにも見えますし、天冠を着けるということから品の高い「増女」かもしれません。あるいは、もしかしたら所謂「能面」ではないのかもしれません。いずれにしましても、幾度もの被災に見舞われながらも、四条町町中がわが命より大切に、と守り伝承されてきたものです。
ところで、他の三体については面をかけておられません。前祭の船鉾も同様のかたちとなっております。四体のうち神功皇后様だけが面をかけられるのにはどういった意味があるのでしょうか。その意味を考えるにあたって、祗園祭における他の山鉾の御神体人形はどのようになっているのか見てみましょう。祗園祭の山鉾には稚児人形や動物の人形を除くと、四十二体のほぼ等身大の御神体が乗っておられます。そのうち四体が仏像です。残る三十八体を男女別(神様そのものを含め)に見ますと男性三十三体・女性五体となっています。で、その三十八体で面をかけておられるのは船鉾・大船鉾・占出山にそれぞれ乗っておられる神功皇后様三体、鈴鹿山の瀬織津姫様、そして浄妙山の筒井浄妙様の五体であります。女性は四体/五体中であり、男性は一体/三十三体中となります。つまり圧倒的に女性が面をかけている割合が高いことが判ります。そのあたりに何やら大きな意味があるように思われますが、どうでしょうか。祗園祭の山の創生期には狂言「鬮罪人」に見られるように、人間が山の舞台の上で出し物を演じたとされています。祗園祭は女人禁制の祭とされていますので(これに関する議論はさて置くとして)、考えられるのは男性が女性役を演じる際に面をかけたのではないか、ということです。その流れから、その後人形となってからも女性のご神体人形は面をかけておられるではないでしょうか。事実、御神体人形は圧倒的に男性が多く、例えば郭巨山では、同様の趣向である大津祭の郭巨山には郭巨の妻が乗っていますが京都の郭巨山には乗っておられません。さらに驚くべきは、岩戸山の天照大神は男性像となっています。 それでは、例外となる、面をかけておられない女性神の葛城神(役行者山)と、面をかけておられる筒井浄妙様(浄妙山)はどう考えればいいのでしょうか。葛城神は、一説には一言主神と同一神であるという説もありますし、生まれついての神様(おかしな言い方ですが、神功皇后様や瀬織津姫様はあくまでも人間)で性別を超越した存在と考えられなくもありません。また筒井浄妙様は、皆様ご承知のように人型の自然木をご神体にされておりますので、丸彫りの頭を付けるわけにはいかず、やむを得ず面をかけられている、と考えるのが自然だと思います。
そうしたことから考えますと、今後復元しなければならない大船鉾の三体の御神体は、当然丸彫りの頭を付けた人形と云う事になるのでしょう。かつては多くの仏師の手によって彫られた御神体の頭ですが、大船鉾の御神体はどなたの手によって復元するのでしょうか。これは学識経験者で構成された委員会の中でも大きなテーマとなることでしょう。いずれにしても、祗園祭の殿を務める大船鉾の御神体に相応しい立派なご神体を復元しなければならない、というのが四条町町中の強い思いでございます。
左から 小面、曲見、増女(御神面は非公開です)
祇園御霊会細記(四条町大船鉾保存会員 個人蔵)
大船鉾考証 屋根の意匠②
先日、船鉾保存会のご好意とご協力により、京都市、四条町中立会いのもと、設計者と施工者による船鉾屋根の調査が行なわれました。その結果、船鉾の屋根は銅板で葺かれ、赤茶色の塗料で塗られていることが分かりました。
四条町の大船鉾は文化11年の「増補祇園御霊会細記」に「屋根二重屋根唐破風銅瓦」とあり、銅板で葺かれていたとの記述ですが、他の鉾は木造うるみ漆塗りで作られているため、大船鉾も同様であり「増補」の記述はうるみ漆の色を銅とみなしたのであろうと考えていました。船鉾も同様だと考えていたのですが、間近に実見することによりまさに銅板葺であったのです! これにより、大船鉾も記述どおり、銅板葺である可能性が高くなりました。
「屋根の意匠」の項でも書きましたが、ここでもう一度、祇園祭の鉾の屋根について考えてみましょう。鉾は本来、手持ちの武具であったものが長大化していきます。京都の各地でみられる剣鉾は手持ちの鉾の限界の大きさだと思われます。祇園祭ではさらに大きくするために車に立てて曳くようになったと考えられます。そこに囃子の風流が合体し、さらに囃子が鉾車に乗るようになってはじめて屋根が必要となります。最初は日よけ程度の簡素なものだったでしょう。鉾が豪華になるにしたがって屋根も現在見られるような立派なものになりました。しかし、あくまでも中心が鉾柱であることを示すように、屋根を支える組物が設けられていません。
では、船鉾はどうでしょうか。船鉾には鉾柱がありませんから、複雑で華麗な屋根を見せています。昔の絵図には簡素な屋根をひとつ設けただけの姿が描かれていますが、江戸時代には今見るような立派な意匠になったようです。ところが、船鉾にも組物がありません。また、長刀鉾や鶏鉾が屋根を立派に見せるために、こけら葺を模して蓑甲(屋根の正背面の上に付いているギザギザの部材)を設け屋根を厚くしているのに対し、船鉾にはそれがなく、薄い屋根になっています。船鉾は御座船型の鉾ですから、屋根を社寺建築のように本格的に作ることができたはずですが、改造の際にあえてそれをしなかったということは、簡素な船鉾の時代から引き継いできた歴史と伝統を受け継ぎたいという思いがあったのかもしれません。
大船鉾は幕末期に立派になった船鉾を模範にして改造されたと考えられます。平成の大船鉾は組物、蓑甲といった建築意匠を取り入れて復元することもできるかもしれませんが、船鉾に見られる改造のあり方に敬意を表しつつ、歴史と伝統を尊重する形で復興していきたいと思います。
大船鉾考証 艫(とも)について
現存の船鉾の後部(船でいう艫)には上下に欄干を持つ艫屋形があります。焼失前の大船鉾にも同じような屋形がありました。古い絵図には鹿島明神を囲む衝立のようなものが描かれていますが、幕末の改造の際には豪華な屋形となったと思われます。
船鉾と大船鉾の艫屋形の最大の違いは、大船鉾が火灯窓の意匠を取り入れていることです。焼失前の絵図にはどれもこの形が描かれていますし、「増補祇園御霊会細記」にも「艫屋形上下に高欄あり中は火燈口」とあるのでほぼ間違いないと思われます。上の図を見ていただくとよく分かると思いますが、火灯窓とは鐘のような形の窓のことです。多くの方は、「お寺の窓だ」と思われることでしょう。その通り、このデザインは禅宗とともに中国から伝わったものです。禅宗のお寺に使われたものが気に入られ、後には多くの建築で使われるようになりました。祇園祭の山鉾では、大船鉾が火灯窓を用いている唯一の例です。他の祭でも長浜曳山祭や長浜の影響を受けている曳山に見られます。これは、長浜型の曳山が「亭(ちん)」という屋形を有するためです。他の曳山は吹き抜け構造のものが多いので、窓を設ける箇所がありません。例外的に、伊賀上野天神祭の天満宮所蔵の模型では一層前部に火灯窓があります。なお、大津祭では源氏山の紫式部の背後にこの窓がありますが、これは石山寺の源氏の間を表すものであり、人形に付属するものだといえるでしょう。
大船鉾がこの意匠を取り入れた理由は不明ですが、後ろから見たときの、船鉾との差異を強調したのは間違いないでしょう。二つの船鉾は同じ神功皇后の乗られる船ではあるが、前祭と同じ船鉾が出されているのではない、ということを、わかる人にはわかってほしいという思いがあったのではないでしょうか。ではなぜ火灯窓の意匠なのか、ということは後の機会に譲ることにして、このような細部の意匠からもかつての四条町の心意気を感じ取っていただければ幸いです。なお、現在、艫屋形の設計も進められていますが、形のいい火灯窓をデザインしてお披露目する予定です。皆さまの応援をよろしくお願いします。
大船鉾考証 礎石
祇園祭の山鉾は古来より、毎年町内の決まった位置に建てます。このため基礎四本柱の建方位置となる場所に四つの石を埋め込み印とします。町会所と鉾をつなぐ桟橋の位置が決まっていますため、多くの山鉾が町会所前に埋め込んでいます。
この礎石は山鉾を持つ町にとって以下の3理由により意外と重要です。①鉾建て時の目印として、連年安全にすえつけられる(真木のある鉾はこれを起こしたり倒したりする時に安全な導線を確保しています)。②曳き初めや巡行から帰った時、基礎四本柱とこの礎石がぴったり合うように留められれば、自動的に桟橋がかけられる。③祭り期間以外の時節において、いつもこの礎石が町中の目に触るることで、鉾を世襲する誇りと気概を楊躍させ、町中の団結心を象徴する。(遠路よりの客人・友人を案内して、また誇らしい気分に浸るものです。あとお地蔵さんも)③はいわば「無限パラノイア・ノスタルギヰ」喚起の装置として面白く機能していると思います。
さてこの礎石、「地面に石が埋まっている」という認識ですが、一体どのくらいうまってるのでようか?近代に地道からアスファルトに変わるとき、一旦この礎石を掘り起こした時のことを記憶している古老の伝によると、「地中に2~3尺(60cm~90cm)くらいは埋まってゐて、あたかも歯茎に植わる歯のやうであった」とのことです。そりゃああまり浅かったら雨季のぬかるみを眺めせしまに位置がずれたりしますものねぇ。
いよいよ町内の団結なったわが町としても、用意ができ次第この礎石を埋め込みたく考えております。
大船鉾考証 屋根の意匠
祇園祭の船鉾・菊水鉾以外の鉾五基と曳山三基は妻入りの切妻屋根となっています。これは屋根型としては最もシンプルな構造です。このことは、車輪をつけた櫓に鉾を立て、囃子が乗るようになってから日よけの屋根をかけたという歴史を表しているものと考えられます。菊水鉾の唐破風はその発展型といえるでしょう。それに対し、現在ある船鉾の屋根は複雑です。入母屋平入の屋形の前に千鳥破風、後ろには軒唐破風を設け、さらに前部に唐破風を差し出すという構成になっています。船鉾においても、かつては日よけの屋根を設けるだけの簡素なものが江戸時代末期、豪華に改装されました。船鉾は鉾柱を持たないため、自由な意匠を採用することができたのでしょう。御座船のイメージで作られたのかもしれません。
さて、わが大船鉾もかつては簡素であった屋根を江戸時代末期に豪華に作り直しています。ところが、その形状についてはいくつかの説があります。まず、このホームページの表紙にもなっている幸野楳嶺描くところの大船鉾は妻入の入母屋破風(むくり屋根のようです)の左右と後ろに軒唐破風を設け、前部に唐破風(と思われる)を差し出しています。現存の船鉾が入母屋平入であるのに対してこれは妻入です。ぜひ船鉾の写真と見比べてみてください。それに対し、昭和7年に描かれた表紙右下の掛け軸では、前後の向唐破風を跨ぐように中央(帥殿部)に切妻破風を置く、という構造です。さらに、幕末~明治に描かれた個人蔵の屏風でも中央の屋根(帥殿部)が切妻造となっています。この屏風は各山鉾の意匠が精緻正確に描かれているため、信憑性が高いとも考えられます。(幕類衣装だけでなく、函谷鉾のみ稚児人形で描ききっているなど正確無比な点が多い)他方参考として文化11年の「増補祇園御霊会細記」に「二重屋根唐破風銅瓦。屋形組天井柱六本」とありこれをどう見るかは見解のわかれるところです。
上記の屋根に似た構造を持つものに、大阪天神祭に出される天満市場のダンジリがあります。これは幕末ころに作られたもので、他のダンジリが二つ屋根であるのに対して「三ツ屋根地車」と呼ばれ、唯一の意匠です。中央屋根に軒唐破風を持つところも上記屏風の大船鉾と共通しています。こちらは標準型のダンジリの発展型と考えられますので、おそらく大船鉾との関連はないでしょうが、偶然同じ意匠が同じ時期に、京都と大阪で採用されたとすれば興味深いですね。
大船鉾の屋根の製作はこれからの課題です。どの形がふさわしいかを熟慮して復元する予定です。どうぞ楽しみにお待ちください。
大船鉾考証 廿四日巡行の様子
報道などで周知の通り、巡行日程を前祭りと後祭りにわける(旧習に戻す)検討がなされている昨今です。それを踏まえ、24日後祭り巡行の模様を考察してみようと思います。(あくまで検討段階での話ですので過分にファンタジックな内容です)
ケース①御池烏丸を出発地点とし、御池通りに整列→河原町南行→四条西進→四条烏丸解散。この場合大船鉾の集合地点はおおよそ新町御池の辻となり、AM9:00の先頭出発時にはここでの辻廻しの最中かと思われます。したがって町内出発は8:30です。他方、先頭(橋弁慶山先頭の議論もあるようですが)の北観音山は9:00に御池烏丸に到達している必要があるため、8:15分には町内出発となります。ただこの御池集合の場合、イデオロギー的な問題が発生します。例えば鈴鹿山は南向きに建っていますが、出発に向けUターンすることになります。これは観念的に是か非かわかりません。御池高倉で籤改め、御旅所前で御祓いがありますが、前祭りほどの行事はなくまた基数も少ないためすみやかな巡行になるかと思います。北観音山が四条新町に到着するのは10:45頃、大船鉾が帰町しても12:00前かと思われます。
ケース②三条烏丸を出発地点とし、三条通り東進→御幸町北仰→御池東進→河原町南行→四条西進。この場合は辻廻しが6回に増え、しかも右旋左旋と大忙しです。最大の懸案は新町三条と三条御幸町の辻廻しで、6m道路交差点・約36㎡の場所で2回辻廻しを行います。大船鉾の船体が7、5mもあるためなかなかの見せ場になります。現在の辻廻しのように1度で2~3メートルスライドするのではなく、10センチずつスライドさせる力のかけ方で鉾が横を向くまで繰り返します。なにしろ狭い場所ですので状況に応じて「前へ送れ」「後へずらせ」と上へ下への大忙し、炎天下や雨中で車方・手伝い・引き手は大変ですが、洛中から疫病を祓うためにはなんのそのです。
ケース③三条烏丸を出発→すぐ辻廻しで烏丸北仰→烏丸二条東進→二条寺町南行→御池寺町東進→御池河原町南行→四条西進。何としても寺町巡行にこだわる場合のルートです。二条はギリギリ氏子内かと思いますので何とか意味は通せるかと思いました。但しこの場合大船鉾は8回の辻廻しを行うことになりまして、現状の2倍の量…こうなれば曳き手の交代要員が必要かもしれませんし、給水ポイントも増やさなければなりません。また、割り竹も前半用と後半用がいるかもしれません。言語に絶しますね。
ケース④全てのアーケードを撤去もしくは可動式にし、かつての巡行路をキレイに再現。吉田茂や田中角栄好みの手法ですね。まあなかなか…。
大船鉾考証 巡行のタイムスケジュール
現在行われている形態の山鉾巡行に大船鉾が加わったらどのようになるか?これは当町のみならず他の山鉾町さまもうすうす気にかけられていることでしょう。
「四条新町下ル」町に建てた大船鉾は、巡行の最後尾を飾るといえどものんびり出発するわけではありません。道幅6,8メートル(-電柱スペース1.5メートル=実質5・3メートル)の通りに車軸幅3、5メートルの鉾が建っているわけですから、後(南)にある船鉾・岩戸山は大船鉾を追い抜くことができません。通り道をあけるためいち早く出発することとなります。
まず初めの問題は四条新町の辻まわしです。出発地点からおよそ100メートル、曳き出してからものの2分で到着する四条新町の辻ですが現在は放下鉾が1番に行っています。その放下鉾は9:00すぎに町内を出発なされ、9:15には祗園社の方向に向きを変えています。さて、当大船鉾の辻まわしは放下鉾より前でしょうか後でしょうか?巡行順からみて、放下鉾より後でよいと思うのですが、ひとつ問題があります。巡行順で放下鉾の後は岩戸山です。となると、①放下鉾②大船鉾(郭巨山のあたりまでバック)③船鉾(大船鉾待機場所の手前までバック)④岩戸山の順になり、すなわち放下鉾・岩戸山の間が50分もあくことになります。これを是としない場合、大船鉾は放下鉾より前に辻まわしを終え、郭巨山のあたりで長らく待機することになりますね。
放下鉾の前となると、8:45町内南限を出発することになります。そして9:00すぎまでには辻まわしを終え、四条新町をあけねばなりません。それからの待機時間はいかほどでしょうか?大船鉾が四条通りを東へ進めるのは北観音山が辻まわしを終え、南観音山が東進した後になります。南観音山東進の時間は10:50ごろですので…大船鉾はほとんど11:00になりますね。ざっと2時間、郭巨山町さんで待機させていただくことになります。
このあとは南観音山の後について巡行するのですが、御池新町で再び順番変えがあります。新町通りには、大船鉾はなんとしても放下鉾・北観音山・南観音山より先に入らねば四条町に帰って来られません。よって大急ぎで御池通りを駆け抜け、船鉾の後につく必要があります。どのぐらいの駆けっぷりかというと、現在巡行で船鉾が新町に入ってゆくのが13:10。大船鉾が河原町御池を出発するのが13:15。スタート時点からすでに遅刻しているのですね。御池通りで一切休憩せず、他の山鉾さんたちに「大船鉾が早く行ってくれなみんな帰られへん」と囁かれつつ13:55ごろ新町を南下、帰町は14:30と思われます。
ということで大船鉾巡行は8:45~14:30まで5時間45分に及びます。長刀鉾の巡行時間が3時間50分ほどですので相当長い巡行時間といえるでしょう。「休み山鉾」という無罪モラトリアムから抜け出す今、こういったこともマジメに考えていかねばなりません。是非ともご支援のほど宜しくお願いいたします。
大船鉾考証 御神体の鎧のゆくえ
「むかし船鉾は出陣の船と凱旋の船の2つあって、今残ってるのは出陣のほうだけ…」四条町界隈で生まれ育つとこう教えられます。そして必ずこう続きます、「凱旋やさかい鎧は着たはらへんねんて、よう知らんけど」
今回はこのことについて考察してみようと思います。ただ、先に申し上げますが結論は出ません(汗)
さて、まず室町期(1400年代後半頃)~江戸元禄(1600年代後半)の頃の屏風絵の、大船鉾とおぼしきものを観察すると一様に鎧を着ています。とにかくこの頃の船鉾は謎が多く、龍神が差し出す満珠・干珠を正体不明の者が盗もうとしている絵図もあるくらいです。前と後の区別があったかどうか、木組み部分が共用だった可能性・また前祭の船の巡行が終わったあと解体せず後祭に参加した可能性も無いとは言えません。1500年以前ともなれば、夜も明けきらぬ時間から順位を争って四条通り(後祭は三条通り)に繰り出したという記述があります。このとき船鉾も先陣を争ったのでしょうか?最後尾で決まっていて順位争いをしていなければ岩戸山は不利になりますね(仏光寺などを迂回すれば解決しますが)。
ちょっと話がそれました。私見として、「凱旋の船」という風流が定着しその意匠として鎧を脱いだのは天明の大火(1788)前後、もしくは文化元年(1804)の復興以降だと考えます(御霊会細記に天明罹災前の様子が書かれており詳考猶予あり)。そもそも「凱旋」(勝って帰ってくる)=「鎧を脱ぐ」というのは、戦を知らない我々には抵抗無く受け入れられますが、実際は間違いです。戦国時代最強を自負していた甲州軍団総帥、武田勝頼が長篠合戦で大敗したとき、対上杉の抑えとして領国留守預かりをしていた名将高坂昌信はほうほうのていで帰ってきた主君を信濃国境・伊那に出迎え、領内を不安にさせないよう新しい具足に着替えさせ凱旋を装いました。凱旋で鎧を脱ぐなどという風習は古今東西ありません。つまり、戦乱の世~元和偃武の頃までは大船鉾神功皇后も一般常識的に鎧を着ていたはずです。それから200余年、太平の世の戦を知らない町衆が鎧を脱がせたんだと考えます。
毎度おなじみですが、当四条町ではかつてご神体に着せていた4人分の具足を探しております。時代考証としてまず間違いなく平安末~室町期の「大鎧」で大袖・草摺(平らなもの)付き、絵図から推察して兜は無かったものと考えています。「あれ、そういえばうちの蔵に大鎧あったな~」という方、その鎧に五・三桐紋があり、「四條町ご神体御鎧」などと銘などありましたら当町にとって貴重な資料になる可能性があります。是非ともご一報下さいます様よろしくお願い申し上げます。
大船鉾考証 最後尾の意味
「長刀が先頭、べったが船鉾、あとは籤で決めるんや」 山鉾町界隈に住んでいれば幼いころに1度は聞くであろう文言ですね。そう聞いた子供は程なく山鉾巡行を目のあたりにして、山鉾の迫力に圧倒されながら巡行順を確認し、いつの間にか「船鉾=最終」を違和感なく受けいれてゆきます。
「べったは船…」「最終を飾る船…」あまりにも常套句化していますが、ちょっと待って下さい。なぜ最終が「船」でなければならないのか?疑問を呈したことはありませんでしょうか。前祭も後祭も最終が「船」でなければならない理由。7日も14日もその船に神功皇后をお祀りする理由。なんだか謎ですね。四条町ではこの問いに対し、大胆な仮説を打ち立てています。
山鉾の起源は御霊会です。夏の盛りにおそらく食べ物由来の疫病が蔓延し、バタバタと人が倒れてゆく状態を悪霊の仕業と見切り、その悪霊を強い清浄で打ち払うべく祗園御霊会が始まりました。手順はおおよそ次の通りです。①悪霊を神剣でなぎ払いある程度きれいにしておく(前祭=長刀鉾※後述)、②祗園社から3神をお迎えし(神幸祭)、本格的に都を浄化していただく(お旅所の7日間)、③浄化完了後、3神がお帰りする道を露払いする(後祭)、④3神が祗園社にお帰りなさる(還幸祭)、以上です。
①の作業において、厳密に意味をなすのは昔も今も長刀鉾のみです。三条小鍛冶の大長刀が悪霊をなぎ祓う、屋根につく外向きの鯱で邪を祓う、蛙股の彫刻「厭舞」も似た理由でしょう。それ以外の山鉾は、故事や神話に基づき鉾頭や意匠が成されていることを考えると、正当に悪霊を祓えるのはやはり長刀鉾だけです。
さてここから、前祭のしんがりを飾る船鉾ですが、「船」は水を進むためのものですね。かつて巡行コースは「四条通り東行」→「寺町南行」です。これは物理的な話で、通り唄にあるとおり「寺・御幸・麩屋・富」で鴨川以西の最初の通りは寺町通りで、現在の河原町通りなどなく、そこはただ一面の河原でありました(この鴨川西岸を京極=京のきわみといいました)。大きな山鉾は地道といえども整備された道路しか進めず、また鴨川が神域との境界であったことからそれ以上進むことをはばかりました。
ところが最終の「船」だけはこのことに当てはまりません。当然浮き世のものなので寺町を南行しましたが、レーゾンデートルとして川を渡るものではないか、と考えます。「鴨川を渡る=神域へ入る」、神域へ入った船鉾は何をするのでしょう?神様を直々に道案内するのでしょうか?否。このとき船は3神の神器(神様たちの大切な道具)を運ぶ役目だったと考えます。その神器は大切に甕のようなものに入れられていました。この凄く大切な甕を大事に大事に市中にお運びする時、人は懐にその甕を抱いて決して失くさぬようお守りします。
もうお気づきでしょうか?神功皇后が妊娠して海を渡り、勝って(お腹を膨らませて)返ってきて無事応神天皇を出産される様子はまさに大事な神器の甕を抱えて(懐を膨らませて)市中に運ぶ様子とそっくりではありませんか?
こうなれば当大船鉾の役割は決まってきます。先の船鉾が持って来た神器を、今度は後祭でただ1基鴨川を渡り、無事祗園社にお戻しするのが役目でしょう。
では次に、いつから御神体が神功皇后に変わったのか?について考えてみたいと思います。…が、これは結論からいって最初からでしょう。正確には嘉吉元年(1441)、船の形に車輪をつけた形態になったときには皇后様がご祭神であったと思います。しかしこれ以前のことが重要だと考えます。「神泉苑」、これをぬきに祇園祭は語れないでしょう。
貞観11年(869)、「御池通り」の由来となる大きな大きな泉(神泉苑)に66本の鉾(剣鉾)を打ちたて、「御霊会」なるものがひっそりと行われたようです。この神泉苑での儀式は今のところ詳細がわかっていません。一体なにをやっていたのでしょうか?①剣鉾は水辺に立てたのか?それともほとりの陸部に立てたのか?②泉で儀式をやる意味は?③このとき泉に「船」は浮いていたか…。
先ほど鴨川の水は「結界」だと申しました。「水引」の語源のとおり、水を四方にめぐらせて結界を結ぶ考え方です。そしてその流れる「水」はとても強い「清浄」の象徴だったことでしょう。であれば神泉苑は悪霊祓いのステージとしてうってつけです。さらには、悪霊退散のために泉の水の清浄パワーをフル活用したことが考えられます。使い方は大きくわけて2パターンあるはずです。①悪霊にむけてこの水を浴びせる(祓い)②悪霊を1つにたばね詰め込んで水に沈めてしまう(封印)
私的には②だと考えます。①の祓いは剣鉾の役目とするのが妥当でしょう。そして②の場合、必然的に船が必要となります。水辺から腕の届く範囲の浅瀬に悪霊を沈めてもなんだか不安ですからね。やはり水深の深いところへドボンとやりたくなるのが人情でしょう。
長くなりましたが、とにかく起源とされる「秘密儀式」のときから、鉾と船がセットだったのではないか?という四条町の考察です。またの機会にもう少し掘り下げた内容を載せたく思います。
大船鉾考証 龍頭
大船鉾の舳先は、江戸初期には御幣(現在見られる和紙+漆+金箔のものではなく「采配」に似たもの)を簡素につけていました。その後江戸中後期に龍頭が登場したと思われます。個人的には、天明の大火(1788)罹災後の復興で作られたのではないかと…。
文化元年(1804)、天明の大火から復興した大船鉾は化政期の財力と美術技術的沸点に支えられ、みちがえて立派なものになりました。このとき龍頭も立派なものが作られました。下絵を松村月渓(呉春)に依頼し完成したそれは、いくつかの掛け軸、屏風絵にみることができます。(古文書には「月渓」下絵とあり呉春初期の作を連想させますが、文化8年永眠の人なので比較的晩年の円熟期の作かと推察されます)
さて、この絵画資料を見ておおよその龍頭の形がみえてきました。
まず、頭から尾まで存在したであろう事。木彫金箔彩色であろう事。次に形ですが、頭は少し左を向いて目玉を正面やや下に睨みつけ、首は大きく右にふれて鉾の右舷からはみ出す勢いがあり、胴は舳先方向正面やや左へ大きく突き出し(胸を張った状態)、腕(手)は左手が左舷と舳先の角部をつかみ(左舷から完全に薬指と小指が見える状態)、右手は舳先の欄縁やや右端を掴んでいる(右舷には全くかからない)形状です。尾の詳細はわかりませんが、上記の延長として推察するに舞台内左舷から中央部へ巻き返してゆくのが自然かと思います。いかにも呉春らしい自由闊達で奔放な龍だった感じがしますね。
当四条町ではこの龍頭の行方を探しています。どんどん焼け(1864)で焼失したとの説もありますが、当時の条件を鑑みて焼失よりは散逸の可能性のほうが高いと考えます。それは①当時の火災は延焼範囲が大きくなるものの火のまわりがそう早くないので宝物の避難持ち出しの猶予があること、②現存品の中に龍頭よりはるかに大きく重いであろうものが多数あること(大金幣や大舵・水引類)、③避難の優先順位が高いであろうこと(ご神面→衣装懸装品→龍頭→金幣の順ではなかろうか)、などがあげられます。
保存形状としては、6点ほどに分割収納されている可能性があるため(頭・首・胴・両腕・尾)、完品で出てくる可能性は少ないかとも思いますが、もしお家の蔵や押入れに「十四日船鉾云々」とか「北四条町云々」とかかれた古い箱などありましたら当町にとって貴重な資料になり得ますので是非ご一報下さいます様、平にお願い申し上げます。19世紀フランスでのジャポニスムなどの折、海外コレクターに所有され(何に使うかわからないまま)元気に暮らしている可能性もありますが、「まず隗よりはじめよ」の精神で町内として鋭意捜索してゆきたく思います。
岡本豊彦画 公益財団法人四条町大船鉾保存会蔵
岡本豊彦は呉春の弟子。つまり師匠が下絵を描いた龍を弟子の豊彦が実物を見て画にしたとも考えられます。